皆様から 「ちばなやくし」と呼ばれて親しまれている「海上寺」は真言宗豊山派(総本山 奈良県桜井市 長谷寺)に属するお寺です。この名称は現在の堀田、牛巻から高辻、鶴舞の方がずっと入り海になっており、その海に臨んだ高台にあるお寺と言うことで名付けられたものと思われます。 創建は古く、およそ1200年前に弘法大師が東国巡錫のおり、熱田神宮に参詣された際、神宮の鬼門除けとして建立せられた寺と伝えられています 。
往時の寺の規模は知るよしもありませんが、現在、山門を入って右の奥に見えるお堂が海上寺の本堂です。当山を中興開山された、誡音法印が寛永十六年(1639)に造営し、享保年間(1720)に再建され、現在の建物は天保六年(1835)に修築されたものです。 本堂に祀られている薬師如来が当山のご本尊さまで、『尾張名所図絵』によれば、弘法大師の作と伝えられています。古来より粟薬師 (あわやくし)と称せられ、粟を供えて家内安全、息災延命を祈願したことからその名が起ったものです。
本堂の左にあるお堂は客殿です。この建物は明治四〇年(1907)に建立されたもので、安置されている仏さまが乳花薬師(ちばなやくし)です。 明治の廃仏毀釈で廃寺になった横三ツ蔵町(名古屋市中区栄3丁目)の東光寺から奉遷されたもので、母乳の満足と幼児の息災守護で有名です。 客殿の前にかかっている乳房(ちぶさ)の作り物は、母乳の出が少ない方が「お乳が沢山でますように」とお願いする際、自分で作ってお供えされたものです。又、その反対に母乳が出すぎて困る方が、ちょうどよくなるようお願いされる場合もあります。 この乳花薬師さまが有名だったので、海上寺と言うお寺の名称よりも「ちばなやくし」と通称されるようになりました。 この客殿の左につづいて玄関、書院など、現在の建物の配置が出来たのは昭和二年(1926) で中興開山より数え、第十七世の恵戒和尚の代になります。その後、第二次大戦の空襲、また昭和34年の伊勢湾台風等にも耐えて現在に致っています。